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世界史の中のウォッカ その③  -小町文雄書下ろし

. オスマン帝国の脅威と東西キリスト教会

   キリスト教会の東西分裂

 結果的に蒸留方法の伝播を促進したことになる東西キリスト教会の合同運動とは何だったのか。当時のモスクワ(大公国)にあったキリスト教はどんなものだったのか。そもそも当時のモスクワとはどんな国だったのか。ウォッカ誕生のいきさつを想像するには、まずこうしたことをひとわたり心得ておかなければならないだろう。

 その前提として、キリスト教東西教会分裂の歴史、東ローマ(ビザンツ)帝国の衰退と西欧諸国およびカトリック教会(ローマ教皇勢力)の成長、そしてオスマン帝国の勢力増大とヨーロッパ世界への進出という流れがある。ごく簡単に歴史をおさらいをしよう。

 キリスト教はローマ帝国において当初迫害を受けるが、紀元313年にローマ皇帝コンスタンチヌス1世によって公認され、388年には帝国の国教とされた。それからは唯一の正しい宗教として、古代ギリシャ以来の伝統的多神教を否定し、弾圧する側になった。

 また、帝国の中興を果たしたコンスタンチヌス1世はみずからの名を冠した新都コンスタンチノポリス(現在のイスタンブール。当時の名称は慣用に従って英語風にコンスタンチノープルと表記する)を建設し、330年にローマからそこへ首都を移した。

 今からでは、ヨーロッパ中央部にあったローマからどうしてそんな東部にわざわざ遷都したのかと思えるかもしれないが、当時の文明と政治勢力の分布状況からすれば、むしろより中心的地域への移動だった。

 しかし巨大なローマ帝国に2つの核ができることになり、395年に帝国は東西に分離してしまう。同時にキリスト教会においても東西の差が徐々に大きくなっていった。

 イタリア半島を中心に西ヨーロッパを支配した西ローマ帝国は、その後食料と居住地を求めて南下するゲルマン諸民族の侵入の前に弱体化し、紀元476年に滅亡してしまう。しかしキリスト教は、ゲルマン諸民族にも受け入れられて生き残る。

 一方の東ローマ帝国は安定し、混乱する西ヨーロッパとは対照的に勢力と権威を維持し、正統ローマ帝国を名乗り続けるが、ローマを中心に築き上げられた合理主義、法治主義、現世主義、非権威主義、快楽趣味などのローマ文明の特徴の多くは引き継がれず(西ヨーロッパでもこれらはしばらく途絶し、生き返るのはルネッサンス期であるが)、専制皇帝制、皇帝教皇主義(皇帝の権限が教会の長の権限に優越する)、禁欲主義、些細なことまで厳格な宗教教義が支配することなどを特徴とする、閉鎖的で権威主義的な中世ギリシャ(ビザンツ)文明が帝国を支配した。

 東ローマ帝国は安定、充実し、9世紀後半には全盛時代を迎えたが、西ヨーロッパでは諸民族の諸王朝が興亡を繰り返し、混乱が続いた。しかし紀元800年にフランク王国のカール大帝(シャルル=マーニュ)がローマで戴冠したころから、西ヨーロッパ地域と西方教会は徐々に落ち着きを取り戻した。ただし東西教会の対立・分離は時代と共に進行していった。

 西ヨーロッパの各地方と政治権力は中世の間にさまざまな対立・闘争を繰り返して、今日まで続く多くの国が成立していくが、教会の方はローマ教皇のもとに単一の教義と教会組織を打ち立てるのに成功し、カトリック(「普遍性」を意味する)を称した。

 一方東方教会はオーソドクス(「正統性」を意味する)を名乗り、みずからがキリスト教の本流だと主張した。こうして東西教会はお互いに相容れなくなり、差が広がって、分裂状態が深化していった。

 現在、東方教会(ギリシャ正教)は民族(国家)別のいくつもの教会組織(教皇に相当する総主教が何人もいる)に分かれ、全体としてはゆるやかな統合体でしかないが、そのようになったのは、初めからカトリック教会のような単一言語(ラテン語)による典礼と、総主教(教皇)を頂点とするピラミッド型教会組織を堅持しなかったため、そしてその地域にイスラム教を交えたはげしい政治的興亡の歴史があったためだ。

 1054年、東西教会はついに完全に分離した。相互に相手を破門したのである。ひとつのキリスト教が東西で異質の文化と伝統(中世ギリシャ・ビザンツ文明と古代ローマ、ゲルマン文明)の中で変質し、発展し、さらには異なる政治権力に支配されたふたつの教会組織に分裂し、以後きびしい対立を続けたのだった。

 1204年には、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪回するはずの十字軍(第4次)が、なんと同じキリスト教東方教会の本部コンスタンチノープルを占領し、以後60年にわたってラテン帝国を打ち立てたことさえあった。こんなできごとがあったあとでは、東西教会の和解がきわめて困難になったのはあたりまえだろう。

 もうひとつ重要な点は、13世紀以来、オスマン帝国(トルコ)が急速に勢力を拡大し、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、さらには西欧世界をもおびやかす存在になっていったことだ。1369年にオスマン帝国はアドリアノープルを首都とするにいたった。現在ではエディルネと呼ばれるこの町は、現トルコ共和国の最北部、ブルガリアおよびギリシャと国境を接する地方、つまり、コンスタンチノープルから陸続きですぐ近くのヨーロッパ地域にある。

 オスマン王朝は15世紀初めには、チムールに敗れて一時崩壊する危機に陥ったが、チムールの死後すぐに帝国を再興し、版図を回復し、さらに拡大させた。1000年以上にわたって栄華を誇ったビザンツ帝国はほとんどの領土を失い、コンスタンチノープルは周辺のごくせまい地域を残して、オスマン帝国に包囲された。

 しかしそんな状態にありながら、ビザンツ帝国は以後も約80年間にわたって存続したのである。存亡の危機に立たされたコンスタンチノープルは西欧世界に対し、同じキリスト教徒として、異教徒の侵略を阻止してほしいと、繰り返し援助を要請した。

 そのころ西ヨーロッパ地域には、野心的な君主に率いられたフランス、ドイツ(神聖ローマ帝国)、スペインなど多くの国家が存在して、相互に覇権を争っていた。また、東地中海を制して、オリエントとの交易によって繁栄したヴェネツィア、ジェノヴァなどのイタリア海洋国家も力をもっていた。

 西ヨーロッパは、宗教的にはローマ教皇を頂点とする単一のカトリック教会が支配していたはずだが、キリスト教国援助のために協力体制を築くことはそう簡単ではなかった。

 教皇は説得、恫喝、破門などのあらゆる手段を使って君主たちに対する統制を強めようとしていたが、必ずしもうまくはいかなかった。聖俗の両権力が実権獲得を競う歴史の中で、実際の教皇庁は、政治的には他の王国と変わらない広さの領域を支配するひとつの国のようなものだったからである。

 もちろん、教皇の座は通常の王位と違って世襲ではなく、毎回ヨーロッパ各地に散らばる枢機卿の、つまり各地の統治者の強い影響下で任命される僧職者の互選で選ばれるという、きわめて特殊な形態ではあったが。

 14世紀から15世紀初めには、100年以上にわたって、教皇庁が本拠地のローマを追われ、南フランスのアヴィニヨンに移らなければならないようなことさえあった(いわゆる「教皇のアヴィニヨン幽囚」)。

 それでも、「神の代理人」としての権威はやはり絶大であり、多くの君主を動かす影響力ももっていた。過去何次かにわたって派遣された西ヨーロッパ諸国連合の十字軍は、教皇の呼びかけに各国が呼応したために可能となったのである。

 ただ、各国の利害が錯綜していたので、軍事行動に各国を動員するためには、教皇も影響力を強めて毎回権謀術数の限りをつくさなければならなかった。

 歴代ローマ教皇は当然ながら、異教徒に脅かされるキリスト教国を救うのは神聖なる義務だとして、各国に救援を呼びかけた。しかし同時に、長年対立してきた東方教会を傘下に入れる絶好の機会と考え、援助の条件として東西教会の合同を主張した。それは平等・同権の合同ではなく、ローマ教皇の卓越した権威を認め、その支配下に入ることを東方教会に強制する事実上の吸収併合だった。

 東方教会は、この受け入れがたい条件をのむか、イスラム教徒に屈するか、という選択に迫られた。異教徒に屈するよりも、同じキリスト教徒に屈するほうがよさそうに思えるが、歴史的に苦い目にあったこともあるカトリックの横暴を考えると、異なる価値観を押し付けるラテン文明を受け入れるよりも、異文化のトルコの軍門に下ったほうがよい、とする意見も少なくなかった。多民族からなるオスマン帝国は、政治的従属を受け入れるなら、支配下の住民の宗教には寛容だったからである。

 ・刻々と脅威を増すオスマン帝国の圧力にさらされる、包囲されて小さな領土しかもたないビザンツ帝国。

 ・存在基盤であるオリエント地域との貿易を失う危機に直面して、打開策を模索する当時の海軍強国ヴェネツィアとジェノヴァ。

 ・相互に対立し、勢力拡大のために駆け引きと争いに明け暮れていたスペイン、フランス、ドイツなどの西ヨーロッパ諸大国。

 ・ヨーロッパ諸国の足並みをそろえてキリスト教国を救おうとしつつも、長年続いた東西教会の対立に終止符を打って、東方教会をもその支配下に入れようと画策する教皇庁。

 15世紀前半は、イスラム・トルコ進出の脅威増大という緊張をはらんだ情勢に直面しながら、ヨーロッパのどの勢力も決定的な策を講じることができないままにすぎていった。

   モスクワ大公国

 さてここで、ウオッカ誕生の地となるロシアがそのころどういう状態にあったのかに目を転じよう。

 ロシアはそれほど古い国ではない。9世紀ごろ、同一言語を話す民族集団が成立し、国家的社会組織を作っていった。これがのちのロシア人の先祖にあたる。

 伝説によれば、ロシアの建国は紀元862年とされるが、そのちょっとあとの882年には、北方にいた集団が南方のキエフを占領し、スラブ人の統一国家を実現した。

 10世紀に入ると、このキエフ公国は度々コンスタンチノープルを攻撃するほどの勢いを見せた。988年、キエフ大公はビザンツ帝国の皇女を妃に迎え、キリスト教(ギリシャ正教)を国教とするにいたった。

 この民族は、のちにロシア語となっていく東スラブ語を使用したが、文化・宗教的にはビザンツ帝国の影響を強く受けていた。だから宗教的には東方教会に属し、ラテン文字ではなく、ギリシャ文字をもとにした固有のキリル文字を作りだしたのだ。

 こうして発足した古代ロシア国家はしかし、順調な発展を遂げることができなかった。13世紀に入ると、東から侵入してきたモンゴル・タタール民族に支配されてしまったからだ。モンゴル・タタール民族によるスラブ人支配の時期は「タタールのくびき」時代と呼ばれた。歴史上、この時期は1236年から1480年まで200年以上続いた、とされる。

*「くびき」とは車やそりを引かせるために馬を制御する道具

 つまりロシア・ウォッカが誕生したとされる15世紀半ばには、ロシアの地はまだ他民族支配の下にあったことになる。しかし実際は、そのころすでにスラブ諸勢力が力をつけ、タタールの支配から脱出しつつあった。モスクワ公国はその中の雄であった。

 タタール人はロシアの地を直接支配するのではなく、武力的に服従させたあとは支配階級や宗教勢力を残し、彼らを通じて間接支配して課税する方法をとった。そこで古代スラブ国家の各地方や都市の勢力は存続し、教会も力を保ったのである。

 ロシアでは国家発生のときから、その支配者をkniaz'(公)と呼び、「王」という名称は使用されなかった。タタール支配のもとでも各地の公の多くが命脈を保ち、分裂・対立状態が続いていた。タタールによる巧みな分割統治だった。

 そんな時期が始まったころ、ヴォルガ、ドン、ドニェプルなどの大河の水系とつながっているモスクワ川のほとり、ロシアの大地の中央部にひとつの公国が出現した。川の名称にちなんでモスクワと名乗ったこの公国は、水運の便と地の利を生かして急速に発達した。

 公国が発展・拡大するためには、経済力と軍事力を獲得するほかに、支配者であるの一族内部の安定や他の大貴族と良好な関係、教会との協力、そして何よりも、すぐれた指導者が必要だったが、モスクワ公国はこれらの条件を満たし、15世紀にはタタールの圧力に抗して支配領域を増大させていった。

 また、世紀半ばにモスクワはみずからの手で府主教(大司教)を選出し、ビザンツの教会組織からある程度独立した地位を獲得した。

 この世紀の半ば、モスクワ公国は激しい内乱に見舞われるが、ワシーリィ2世(在位142562)が勝利をおさめ、次のイワン3世(在位14621505)の時代になると、他のロシア諸国を併合し、タタールのくびきを終了させて、まぎれもない地域強国となった。

 のちに「雷帝」と呼ばれて私達にもなじみのあるイワン4世は、異民族支配地域にまで領土を広げ、ツァー(「ツェーザリ(カエサル=皇帝)」から作られたことば)を名乗るが、それはもう少し先、16世紀半ばのことになる。

 コンスタンチノープルが陥落した15世紀半ば、ロシア(モスクワ)はこのような上り坂の状態にあった。コンスタンチノープル陥落後も東方教会の存続自体はトルコによって認められたが、東方教会組織は力を失い、権威は地に落ちた。そのときにキリスト教会の正統な後継者として名乗りを上げたのはモスクワだった。

 「第1のローマ教会は、真のキリスト教を裏切ったがゆえに滅びた。第2のローマであるコンスタンチノープルも同じ理由で神の罰を受けた。今やモスクワこそが第3のローマであり、この真のキリスト教会は、この世の終わりまで続く。」

 このようにして東西教会関係は新しい時代に入るが、それはもはや、ウォッカとは関係のない別の物語である。

   オスマン帝国の拡大と瀕死のコンスタンチノープル

 風前の灯であったコンスタンチノープルの運命に話を戻そう。

 すでに述べたように、13世紀末にアナトリア(小アジア)に建国したトルコ人を中核とするイスラム教徒のオスマン帝国は急速に力をつけ、1326年にはアナトリア北西部のブルサに首都を定めた。

 さらにその後、マルマラ海を越えてヨーロッパ部分に進出し、領土を拡大したオスマン帝国は1369年にはコンスタンチノープルのすぐ北側に位置するアドリアノープル(現エディルネ)を首都にするにいたった。

 力の衰えていたビザンツ(東ローマ)帝国は領土のほとんどを失い、首都コンスタンチノープルは後背地をわずかに残して、マルマラ海とボスポラス海峡のほとりに孤立した。

 日の出の勢いだったオスマン帝国はひとたびはコンスタンチノープルを包囲するが、1402年に東方の新興勢力チムールに大敗し、帝国は一時瓦解してしまう。ただし、ビザンツおよびヨーロッパ勢力が失地を回復できないでいるうちに再興を果たし、もとの領地をふたたび支配することとなった。ビザンツ帝国は絶好の起死回生の機会を生かすことができなかったのだ。

 ビザンツ帝国は、ブルガリア、マケドニアなどの東ヨーロッパ諸国と共に、オスマン帝国に年貢金を払わされることになった。しかし、オスマン帝国はしばらくの間それ以上の行動には出なかった。

 コンスタンチノープルは東西を結ぶ自由港のような役割を演じ続け、ここでヴェネツィアやジェノヴァなどのイタリア商人やアラブ、アルメニア、ユダヤ人の商人たちが活発な商業活動を展開した。もともと遊牧民のトルコ民族自身は、あまり商業活動をしないのである。

 こうしてコンスタンチノープルはスルタンが最終決着の決心を固めるまで、風前の灯ではありながら、伝統文化と商業繁栄の光を放ち続けていた。

 1451年、コンスタンチノープルの現状に手をつけようとしなかったスルタン・ムラードが死ぬと、古代ギリシャのアレクサンドル大王にあこがれ、帝国拡大の野心に燃える19歳のマホメッド2世がスルタンに即位した。

 その3年前に即位していたビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンチヌス11世は、この情勢の変化に直面して緊急援助要請の使節団をローマに送った。もはやあとのない皇帝は使節団に、カトリック主導による東西教会の合同に同意する旨の書簡をもたせた。

 52年になると、コンスタンチノープルを取り巻く風雲は急を告げてきた。コンスタンチノープル中心部からわずか30キロしか離れていないビザンツ帝国領内のボスポラス海峡ヨーロッパ側海岸のルメル・ヒサリに、トルコが要塞建設を始めたのである。この要塞跡の堅固な石造物は、沖を行く船を威嚇するかのような姿を今に残している。しかしビザンツ帝国側は何もなすすべをもたなかった。西欧からはわずかな数の援軍しか到着しなかった。

 玉砕の覚悟を固めたコンスタンチヌス11世はできる限りの防御策を講じた。三重の堅牢な城壁をめぐらせ、細長い金角湾の入り口には鎖をはって、トルコ軍船の侵入を防いだ。

 スルタンも着々と攻略作戦を進めた。あらゆる民族やタイプの兵士を合わせても7000名しかいないコンスタンチノープルに対し、16万人にも及ぶ兵士を動員したのである。城壁を破壊するために、それまでに例のない巨大な大砲も準備した。

 1453年4月12日、ついに攻撃が開始された。海上では、経験豊富なヴェネツィアとジェノヴァの海軍が少数ながら健闘して、トルコ軍船の金角湾侵入を阻止したが、物量と兵員数で圧倒的なトルコ陸上軍は1週間連続して城壁への砲撃を続け、その後総攻撃をかけた。しかし防衛側は、城壁の多くを崩されながらこの猛攻撃をしのいだ。

 総攻撃を跳ね返され、正面の海側からの金角湾突入も阻まれたスルタンは、ここで奇想天外の作戦に出た。ボスポラス海峡側から70隻の船を陸に上げ、高地を越えて金角湾に滑り込ませたのである。誰も考えたことのない海軍の山越えであった。両側を海に守られていたコンスタンチノープル防衛線のひとつが効力を失ってしまった。

 包囲網はさらに狭まり、砲撃はやまなかった。結局ヨーロッパから本格的な援軍は到着しなかった。コンスタンチヌス11世は度重なるスルタンからの、退去と首都明け渡しの勧告を受け入れようとせず、トルコによる波状攻撃は執拗に続けられた。包囲攻撃に対する抵抗は50日になろうとしていた。

 5月29日、16万のトルコ兵が最後の総攻撃に移り、その攻撃でコンスタンチノープルはついに陥落した。最後の皇帝はその戦闘の中で戦死した。1100年以上続いた東ローマ帝国はここに消滅したのである。街は3日間、スルタンの許可を得たトルコ兵の略奪にさらされた。

 この戦いで、新興モスクワ公国はどんな役を演じたのか。格別の役は演じていない。まだ領域外に兵を送るだけの力をもっていなかったのである。ただ前述のように、コンスタンチノープルの東方教会が無力化したあと、モスクワは東方キリスト教会首長の正統な後継者として名乗りをあげたのであった。(その④へつづく)

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