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ウォッカの国ロシアから、日本でも親しまれていたなつかしのウォッカ、現地で人気のウォッカを選んで輸入し卸とネット通販をしています。このサイトはプロムテック・ビズが運営する通販小売ショップです。業務用・卸についてはTEL:03-5347-0392までお問い合わせください。

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世界史の中のウォッカ そのぁ丙能章) −小町文雄書下ろし

 4. イシードロス枢機卿とウォッカ

   東西教会合同運動とイシードロスの「転向」

 総主教、府主教、主教というのは東方教会の最高位と、その下2段階の役職の名称である。西方教会(カトリック)でこれに相当するのは教皇、大司教、司教である。もちろん完全に一致するわけではないし、細かい点ではいろいろな違いがあるが。

 カトリックにはさらに枢機卿という、大司教の上に位置づけられる職位があり、彼らが毎回教皇を互選する(コンクラーベ)。

 東西キリスト教は、分裂以来合同したことがないので、総主教兼枢機卿という職位は本来ありえない。しかし、東方教会総主教の座があったコンスタンチノープルの陥落が目前に迫ったときに、最後のビザンツ皇帝コンスタンチヌス11世が下した決断によって、ほんの一時期ではあるが形式的に成立した東西キリスト教会合同のもとで、すでにカトリックの枢機卿の称号を受けていた人物が東方教会の最高位をも兼務する事態が生じた。その人物がイシードロスなのであり、ほかならぬその人物こそがモスクワにアルコール蒸留法を伝授したと推測されているのである。

 イシードロスは東方教会の主流派からは裏切り者とされ、西方教会からは、東方教会併合をもくろんだローマ教皇の格好の駒にすぎない存在とみなされたので、従来あまり敬意を払われることがなかった。しかし、近年その合理的精神と、両教会合同実現のための献身的活躍に関する考証・研究が進み、評価が高まってきた。

 私たちにとってイシードロスは、確認されていないとはいっても、ウォッカの生みの親である可能性の高い最大級の重要人物である。

 イシードロスは1390年(?)にペロポネサス半島南端部に生まれたギリシャ人で、1463年にローマで没し、サンピエトロ大聖堂に手厚く葬られている。言行録や、著作物や書簡もかなり多数残されている。

 イシードロスはコンスタンチノープルで学び、当時としては破格の広い学識を身につけたあと、修道院に入って東方教会屈指の学者のひとりとされた。1434年、バーゼルで開かれた東西教会会議で早くも、トルコの脅威に対して東西教会が協力することの重要性を説く演説をしている。

 1436年には「キエフおよび全ロシア」府主教に任命された。「タタールのくびき」以来、ロシア発祥の地である古都キエフは往年の勢力と権威を失っていたし、「全ロシア」といっても、多くの諸公が対立状態にあった。だから実体を伴ってはいなかったのだが、総本山のコンスタンチノープルが任命する、ロシア諸公国教会組織の中で最も権威の高い職位であった。

 祖国がイスラム教徒によって滅ぼされる危機にあったので、イシードロスは早くから、東西キリスト教会が一致してこの危機に対処すべきだという考えをもっていた。彼は精力的に各地をめぐって自説を説いた。1437年には、東方教会文化圏内にありながら、地理的にトルコにおびやかされることもなく、着々と力をつけていた新興国モスクワにも足を延ばす。

 ここでモスクワ大公ワシーリィ2世に拝謁し、東西教会の協力の必要性を説いたが、モスクワはまだその問題を重要課題と考える必要がない状態にあったので、この訪問がどの程度意味をもったのかはわからない。モスクワ公国はヨーロッパ世界ではまだ辺境の端役にすぎなかったが、潜在力を考えれば、無視できない存在ではあったのだろう。

 イシードロスはその後もロシア各公国や東欧地域の各国を回り、熱心な説得活動を続けた。そして当時西ヨーロッパ世界の南部のほぼ東端に位置し、海洋商業に基づく共和国であったために、他地域とは違った自由な雰囲気が横溢していた国家ヴェネツィアに到着した。

 イシードロスはヴェネツィアを初めとするイタリア各地を訪問、居住し、自由なルネッサンスの空気に触れた。この経験はイシードロスの価値観をゆるがせるほどの影響を与えたようである。

 ビザンツ文明を支える支柱だった東方教会(ギリシャ正教)では権威主義的考え方が支配し、すべてにわたって硬直していた。ビザンツ文明圏は旧来の秩序と世界観をかたくなに守ろうとする人々が主流を占めていた。その教会に絶対的に服従する修道僧たちの排他的、禁欲的価値観が社会を支配していた。それでいながら教会はローマ教皇とは違い、皇帝という世俗的権力の下に位置する教皇皇帝主義だった。

 イシードロスは、人間性の発露を認めるルネッサンス期の西欧文明と、それに柔軟に(東方教会に比べれば)対応する西方教会のあり方に驚愕し、急速にそれへの共感を強めていったようである。

 熱烈な愛国者ではあったが、イシードロスはローマ・カトリックが主導する形の教会統一も止むを得ないと考えた。のみならず、それこそがイスラムの脅威からキリスト教会を救う唯一の道だ、とさえ考えるようになっていったのである。

 143839年、北イタリアのフェッラーラ(そのあとフィレンツェに移動)で東西教会の会議がおこなわれ、教会組織の合同に関する問題が話し合われた。トルコの脅威にさらされていた東方教会は、軍事的・政治的援助を期待して、合同に熱意をもっていたが、あくまでも東西対等を要求していた。

 一方カトリック教会は、これを東方教会併合の絶好の機会と見た。彼らはコンスタンチノープル防衛援助の代わりにローマ教皇の絶対的権威を認めた上で教会組織を合同させることを条件として求め、譲ることはなかった。

 イシードロスは東方教会の有力な代表のひとりであったが、西方教会の求める条件でも合同を実現しなければならないとする立場をとった。彼は精力的な運動を展開したが、東方教会代表団の大半は、これに同調しなかった。会議は決裂した。

 ローマ教皇は、東方教会にありながら、自分の意見と政策の先兵の役を果たしているイシードロスを評価し、枢機卿という最高位を授けた。さらに教皇特使の資格も与えられたイシードロスは、ヨーロッパ東部各国を回ってカトリック主導による東西教会合同に同調するよう、説いて回った。

 当然彼は、東方教会の多くの関係者から裏切り者として憎まれることとなった。それでも彼はめげることなく、「僻地」ではあったがビザンツ文化圏の中で力を増しつつあったモスクワを再度訪問する決心をしたのだった。

   イシードロスのモスクワ訪問、そのときに

モンゴル・タタールの軍勢がロシアの地を攻略し始めた13世紀に発足したモスクワ公国は、隣国との争い、タタールへの巧みな追従外交などへて徐々に力をつけ、1380年にはついにタタール軍を打ち破るまでになる。その後ふたたびタタールに屈したので、ロシア史の「くびき」の時代が終わったわけではないが、モスクワ公国は国力も権威も上り、領土は拡大した。

15世紀にはすぐれた指導者のワシーリィ2世(在位142562年)が現れて、公国はさらに強力になったが、血なまぐさい内部紛争が続いた。ワシーリィ2世の統治は3回も妨げられ、そのたびに追放されたので、その在位期間は連続していない。

 最後の追放の際(1446年)には残酷にも目つぶしの刑に処されてしまったので、歴史上「盲目公」と呼ばれるようになる。しかし、それにもめげずに復位したこの大公のもとで、モスクワはある程度安定し、さらに発展したのだった。

 イシードロスが最初にモスクワを訪問し、ワシーリィ2世に対面したのは、1437年、大公が盲目にされる以前のことである。フェッラーラ=フィレンツェ会議よりも前であったが、イシードロスは東西教会の合同の必要性を強く訴え、支持を求めた。

 ワシーリィ2世の浮沈が物語るように、当時のモスクワ公国では激しい政争が繰り広げられていた。およそ四半世紀にわたって、支配者一族の間で血なまぐさい紛争が続いたのだ。これに近隣諸国との戦争やタタールとの闘争が重なった。このような不安定な状態に終止符を打ち、モスクワ公国の安定と発展の基礎を築いて次世代につなげたのが、このワシーリィ2世だったのである。

 イシードロスの2度目のモスクワ訪問は1441年のことである。このときにはすでにカトリックの枢機卿の肩書きももって合同を説いたので、間もなく捕らえられ、幽閉されてしまった。裏切り者とみなされて処刑される危険さえあった。

 捕われたイシードロスは前の訪問の際に謁見を許され、好意的に処遇してくれたワシーリィ2世に期待をかけた。

 ワシーリィ2世はきびしい乱世を乗り切って安定をもたらしたすぐれた政治家だったが、彼の周囲には同族の有力者、他の大貴族、高位の僧侶、タタールと結びついた勢力など、いつ敵に回ってもおかしくない勢力がひしめいていた。

 その中を生き抜いただけではなく、味方をふやし、敵対勢力を弱体化させ、支配力を強化したということは、すぐれたリアリストの素質をもっていたことを意味する。

 イシードロスはその点に望みを託したのだろうか。まだトルコからの脅威を受けることはなく、西欧列強の勢力争いにもほとんど関係のないモスクワ大公は、イシードロスの説く教会合同の大義には、そもそもあまり関心をもたなかったのではないか思われる。

 僧侶階級をふくむ多数の勢力を御していかなければならなかったリアリストの権力者が東西教会合同に関心をもったとすれば、純粋な信仰心や外交上の配慮などからではなく、あくまでも内政的な損得の観点からだっただろう。

 一方で、アクアヴィットのような新しいアルコール飲料の生産は、モスクワ大公に有形無形の大きな利益をもたらす可能性を秘めていた。イシードロスはそのことを大公に説明して、自分を釈放してくれるなら、その製法を伝授する、ともちかけたのではあるまいか。

 ロシアに当時すでに存在していたビールのような穀物飲料から、アクアヴィットと同じ「命の水」を作り出す秘法をお教えしましょう、と。

 イシードロスはなぜ蒸留法を知っていたのだろうか。蒸留法は中世初期以来、ヨーロッパで熱心に取り組まれた錬金術の数々の探求の成果だった。イシードロスはその時代切っての学者だったから、その豊かな学識には古代ギリシャ語やラテン語などの語学、哲学、神学、歴史学、修辞学などの分野がふくまれていた。であるならば、その中に錬金術とも関連の深い当時の化学が入っていたとしてもふしぎはない。

 イシードロスの説く東西教会の合同に関して、モスクワの高級僧侶たちは激しく反発したはずである。しかし、このときの大公には、イシードロスの説く教会合同の方針を採用するという政治的な賭けをする必要はなかった。脱走を黙認するだけで巨利が得られるのなら、これは大きなチャンスではあるまいか。

 大公は旺盛な好奇心をもっていた。それに大公は日ごろから何かと口うるさく政治に関与してくる僧侶たちをよく思っていなかったから、たいした危険をおかすことなく彼らの進言を無視して、自分の考えを通すことに快感を覚えたのかもしれない。

 イシードロスはクレムリン内部にある修道院に軟禁の状態となり、そこでアルコール蒸留を実現させるよう命じられた。成功の暁には従者と馬を与えられ、途中まで安全に護送される約束であった。

 クレムリンというのは、ロシアの古い町ならどこにでもあった城塞のことである。モスクワ・クレムリンは大きく蛇行を繰り返すモスクワ川が2本に分かれる場所の小高い丘の上にある。その1本は現在では地下の暗渠となっているので地表で目にすることはない。

15世紀前半のモスクワ・クレムリンは現在より広く、ちょっと想像しにくい姿をしていただろうと思われる。現在見られるレンガ造りの城壁と塔は、今ここで扱っているよりもあとの、15世紀末に整備されたものだし、古いロシアのたたずまいを今に残す3つの聖堂も、白く高い鐘楼も、古いいくつかの宮殿もすべて15世紀の終わりごろ以降に建てられたのだから。

16世紀半ば(ワシーリィ2世治世の100年後)に作られた絵図を見ると、敷地の中にはびっしりと多数の建物がならんでいるが、当時は建物がもう少しまばらだったのではあるまいか。その周囲は白い石造、部分的には木造の城壁で囲まれていたらしい。

 つまり、当時のモスクワ・クレムリンは城壁に囲まれたヨーロッパの中世都市のようなものだったのだ。絵図によると、敷地内部のところどころに、大きな石造りの宮殿や寺院のようなものが建っている。寺院、修道院はひとつではなく、いくつもあったのだ。

 イシードロスはそのうちのひとつで作業に従事したはずだ。壁が厚く、窓が小さく、柱が太い、まるで洞窟のような修道院の内部。暗いろうそくの火の中に、漆喰の壁に描かれた(いにしえ)の聖人たちの像が浮かび上がる。

 それとも作業は、木造の小屋の中でおこなわれたのだろうか。当時の木造家屋は厳冬の隙間風を防ぐために、間に苔を詰めて積み重ねられた丸太造りだった。窓は小さく、ガラスの代わりに雲母がはめ込まれており、床は土間である。壁に埋め込まれたロシア風の閉鎖式暖房装置ペチカとは別に、作業のための火が、開かれた炉の中で燃えている。

 イシードロスは何人かの助手を使って火の様子や原料やその容器のぐあいを見させたことだろう。まだガラスが存在しなかった時代に、アルコール蒸気を集めて外へ導き出す管は何で作られていたのだろうか。

 イシードロスはときどき容器の内側にたまるしずくをすくいとってなめてみる。あたりには鼻を刺すようなアルコールのにおいが立ち込めている。

 蒸留は何回か繰り返しておこなう必要がある。1回ではそれほどアルコール濃度が高まらないからだ。最初の蒸留で得られた薄いアルコールを陶器のかめに溜める。ある量が溜まったら、これに2回目の蒸留を施す。これを何回か繰り返し、白樺の炭で不純物を濾し取ると、透明の「命の水」が得られるのだ。こんな作業が何日も続いた。

 大公の監視役がときおり様子を見に来る。周囲の、敵意あふれる修道僧たちも、好奇心に負けてのぞきに来たに違いない。まだウォッカはなかったわけだから、後世のように、試作品をちょろまかすふとどきな飲兵衛などはいなかったはずである。

 信念の人イシードロスがそんな中で黙々と作業を続ける様子が目に浮かぶようだ。当初は失敗の連続だったかもしれない。それでも、自分の双肩に東方教会の命運がかかっていると信じたイシードロスは必死だった。

 めでたく作業が終了して、完成品を大公に献上したときはどんな光景だったのだろう。大公が家臣を謁見するときに使う玉座の間は、西欧諸国の明るい宮殿とはまったく違って、アーチ造りの小さな丸天井がいくつもあって、窓が小さく、薄暗い。厚い壁も、アーチを支える太い柱も、天井も鮮やかな色のフレスコ画に覆われており、薄暗いランプの光の中であやしくも荘厳な雰囲気をかもし出している。

 重々しいローブを羽織り、長いひげを蓄えた重臣がずらりと左右に並ぶ。ギリシャ正教ではひげを切ることは禁じられていたのだ。その中を、できたばかりのウォッカを満たした銀器をもったイシードロスがうやうやしく進み出る。

 玉座にすわった大公は、液体をまず毒見役に飲ませる。今まで味わったこともない強いスピリッツを、毒見役はどんな顔をして飲み干したのだろう。喉をおそった強いアルコールの刺激に顔をしかめただろうか。

 好奇心を抑えきれずに、みずからも銀の盃をぐいと飲み干した大公はどんな反応を示したのだろう。弱音を吐くわけにはいかなかっただろうから、500年後のロシア人飲兵衛たちのように、こぶしを口にあて、咳払いをしてとりつくろったのかもしれない。

 その後しばらくは、めでたく成功した方法を修道僧たちに伝授する、陽気で忙しい日々が続いた。

 さらにしばらくたったある日の朝まだき、凍てつく空気の中を、馬にまたがったイシードロスは従者と護衛につきそわれ、晴れ晴れとした表情でクレムリンの城壁をあとにした。目指す西の世界で、彼にはまだやるべき仕事があった。

 と、「講釈師、見てきたような嘘をつき」でありました。

   コンスタンチノープル陥落とその後

 モスクワ脱出後、イシードロスはリトアニア、ポーランド、ハンガリーなどを経てローマに帰着するが、その後もコンスタンチノープルとの間を往復して、熱烈に合同運動を推進しつつ、数々のカトリック教会の要職を歴任した。

 1453年には教皇特使として200名の兵士を率いて、包囲下で絶望的状況にあったコンスタンチノープルに到着し、首都防衛を担う幹部会議の一員となった。ビザンツ帝国皇帝、その重臣や軍人たち、東方教会の高僧たち、市内に自分たちの居住区をもっていたヴェネツィア、ジェノヴァ両国の代表などがその主要なメンバーだった。

 そこへ、いわば死地に飛び込む形で部外者が参加したのである。教皇特使という、肩書きだけはりっぱながらも、200名の兵士しかもたない、軍人ではない僧侶として。

 結局まともな援軍を送ることができなかったローマ教皇が、東方教会に示しえたわずかな誠意を具現したのが、イシードロスとその軍勢だったのである。

 東西教会合同を記念して捧げられるミサは、コンスタンチヌス11世の要望により、イシードロス到着前にすでに聖ソフィア大聖堂でおこなわれていたが、陥落直前にもう一度、東西両キリスト教会が一体であることを確認するミサが執りおこなわれた。

 しかし、コンスタンチノープル陥落後、トルコに認められて存続した東方教会組織本部も、東方教会首長の後継者をもって任じたモスクワも、このときの合同儀式を正式なものと認めなかったので、事実上東西教会の合同は成立しなかった。

 コンスタンチノープルにおいて、はからずもビザンツ帝国皇帝に次ぐ重要人物となってしまったイシードロスは、陥落時の混乱の中で負傷する。しかし彼は枢機卿の衣服を脱ぎ捨てて姿をくらまし、きびしい捜索の目を逃れて、小アジアに移送される捕囚の群に紛れ込んだ。

 何度も発覚する危険にさらされながら、彼はさらにそこからも脱出し、海路でトルコ勢力圏から逃れた。そして翌年にはヴェネツィアまでたどり着き、その後ローマに帰着した。まさに奇跡的生還であった。

 この驚くべき人物はその後も屈することなく、キプロスのニコシア大主教になったり、諸国に十字軍結成を呼びかけるなど、活発な活動を続けたが、63年に死去して、ローマのサンピエトロ大聖堂に葬られた。

 イシードロスの生涯の功績はどう評価されるべきなのか。これは、当然ながら評価する側の宗教的立場によって大きく異なるだろう。

 ところで、モスクワにアルコール蒸留法を伝えたのがもし本当にイシードロスであったのなら、そちらの方の功績評価はどんなものがふさわしいのだろうか。これはまさか、宗教的立場によって異なるものとはなるまい。ウォッカは東西いずれの教会人にも、信者にも、さらにのちには異教徒にすら(イスラム教徒は禁酒だから除かれるが)、ひとしく至福をもたらしたからである。

 たしかに東西キリスト教会合同の試みという、世界史上特筆されてしかるべき活躍と比べたら、ウォッカ誕生への貢献などは、あったとしても、従来なら取り上げるにも値しないものと扱われただろう。しかし、社会史の立場に立てば、これもロシア文化というひとつの文化の重要な要素を生み出すことにつながった偉大な業績ではあるまいか。

 このようないきさつで、ウォッカの誕生は世界史を激震させたできごとに触発され、それと深い因縁をもって実現したのである。初めに述べたように、ウォッカはまさに世界史の激動の中で生まれたのだ。

 さて。現在に生きる飲兵衛で不信心者の、あなた。

 あなたにとっては、イシードロスのどちらの功績がより大きな意味をもつのでしょうか。ウォッカを飲みながら、よーく考えてみましょう。  (終)

<著者紹介へつづく>

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